昭和40年10月23日 朝の御理解 ★
★ 今朝、あー、神様に調髪という事を頂いた。調髪とは髪を整えると書く。髪を整える。いわゆるヘアスタイルと申しますね。その、おースタイルを変えるという例えばあの髪を長くされておられる方達なんか皆経験のある事でしょうけれども、もう、寝癖の悪い人なんか折角綺麗に整えておったのが、乱れたり変な癖が入ったり致しますね。そういう時にはそれを又、綺麗に、又洗うなり綺麗に分けたりパウダーをつけたり、いよいよそれでもいかん時には(?)なんかもつけて、それでもいかんとアイロンならアイロンでもかけてからでも治す。そういうような事が、あー、調髪とか、もちろん、これは信心、信心、自分の信心を整えるという事だと思う。おかしいなあ、たったこんな事が気になったり、この位な事が心配になったり、このくらいの事が腹に立ったり、これはもう、整えなければならないと思いますね。自分の信心の心というものを整えなければならない。自分の心に我情我欲が強なるか。信心させて頂とってこんな事でよいはずがない。けれども、自分の心の中にムラムラと起こって来る、我情我欲の心というものをです整える。どうしてもいけん。荒修行の一つもさせて頂いてからでも、それは整えなければならないという事。あるという事をです、私、お互い知らなければならないと思うですね。
お参りをする御祈念を頂く、御理解を頂くと、それも私は言い換えるならば、自分の信心を整える事の為に御祈念をするのであり、御理解を頂くのでありお参りでもさせて頂くのであるという事なんです。ね。確かに整えられた、本当にありがたいという、平常心というか和賀心というか、自分の心の中に今日はこれでいけばおかげ頂けるなあと思おていながらももう、帰り道には腹かいてきたり、不安になったりもう、もう昼頃ともなったらその信心の心やらどこへやらといったような、あー、事になってはならん。なったらだからそこに、手を入れなければならないと思う。ね。そこんところを一つ皆さんおかげ頂かなければいけないと思うのですね。私はおかげを受けていくということはそういう事だと思う。ですから、信心をいつも綺麗に分けとけば、綺麗に油をつけておけばそれでよいということはない。ね。いつもだから鏡を見ておる。いつも信心の教えを心の中に教えを心の鏡とさせてもろうて、その自分の心というものをいつも見極めて行く。そして、こういう事ではおかげを受けられない、こういう状態ではおかげは受けられない、ということをです、私は絶えず、あの、見極め反省していかなければならないとこう思う。ね、その整える所の方法がです、やはり工夫だとこう思う。「話を聞くだけが能ではない。わが心からも練りだせ」と。そういうい事をこの練り出させてもらう、もろうたり、心の状態というものをいつも、安らぎ和賀心にして行くところに、調節を取らせてもらうという、その事が私は楽しみであり、有り難いという事になってこなければいんと思うですね。
その点私共はこの、人の様々な難儀な問題、突発的な事柄をお届けさせて頂くのでございますから、自分の心の調子が整えていない時に、お取次ぎなんか出来ることではない、出来ない事を知っておる。ですから、本当にそこんところに焦点をおかなきゃならん。で、どうでしょうか、皆さんがですね、本当にあのお取次ぎをさせて頂くよう気持ちでです、自分の心に本気で取り組ませて頂かなければ、今度の御大祭を頂いて色々、おー、思うことは、御大祭を頂いてから、あー、今度の御大祭におかげを受ける人達がだんだん出来てくるなという、これは私はお説教台の前に立ってご挨拶させてもらう時にもう、それを非常に私の心の中に感じたんです。いわゆる、お話しをさせて頂きよって手応えが、こう響いてくるんです。おかげを受けるという。ね。この頃からもお話しさせて頂いた、鉄砲を獣に向かって鉄砲を撃つと、あたった時には手応えがある。あたらない時には手応えがない。確かに手応えはあったんだというように、その、手応えがある。といようにですね、御理解を頂かせて頂いておっても、手応えがある時とない時がある。朝晩の御理解にでもそれを感ずる。手応えが無い時は結局自分の稽古未熟であり、自分、自分が頂くだけである。手応えがある時は自分自身も頂いておるけれども、稽古も出来、自分自身の稽古も出来ておるけれども、やはり、その、それをそうと本当に命中した一つの、人もやっぱりおかげを頂く時である。
4,5日前、夜遅く伊万里から電話がかかって来た。竹内先生のお母さんから、「若先生よー」ち言うて、飛ぶごつ呼んで、なにごつじゃろうかと思いよったら、「親先生に宜しくお礼を申し上げとってくれ」と言うことだった。「今度のそれにはお父ちゃんと一緒に久留米にお礼にでたいけれども、とりあえず、まあ、ちょっとお礼を申し上げなければ」ということであった。あちらのおばちゃんは前々から御取次を頂いておられたんですけれども、四十年来からの持病があったんです。ある病気。ところがですね、あの、御大祭を頂いてから帰らせてもろうて、もう、あの時は何日間になってる。けれどもそれがその40年間の病気がです、もう全然、感じない程におかげを頂いておる。もう本当に有り難い事である、これはちょいと不思議な事であると何日、こうずっとその、そのことを自分の心の中にかけさせて頂いておるけれども、これはいよいよおかげを頂いておると思うから、電話を掛けられたわけなんですよね。というてその、おー、そういうのが今度は幾つかもお届けをさせて頂いたですね。私は。
昨日も、熊本の(?)のほうから参って来た、おじいさんが前に何回か参って来た事がある。息子さん嫁さんがちょいちょい参って来る。その息子さんというのが、もうそれこそ難儀な病気を、それでその、おじいさん上熊本教会にお参りしとったけれども、とても、私どんじゃおかげ頂ききらんから、もう私は信心は止めると言うて、もう一家で信心を止めると云う時にです、大祭の御案内を受けたからというて、迎えにきて、あの、誘いに来てくれた。ある熱心な信者さん。「そげなこつ言わんで、向こうの記念祭でもあるし、どうでんこうでんいっちょおかげを頂きなさい」というてその、息子達も一緒にお参りをさせて頂いた。御大祭を頂いて、帰って、それっきりおかげ頂いとおるち。
それはとてもちょっとやごそっとで出来るその、病気じゃなかったんです。その息子さんの病気ちゅうのは。もうその度に家が真っ暗になるとうい病気だったんです。そのおじいさんに昨日わざわざお礼に出て来ております。とういうようにですね、そういう例えば話しを聞きながらね、目が明いたり足が立ったりといったようなおかげも頂けれるんです。話を聞いて助かるという事はそういう事でもあるのです。ね、けれども、それだけのものではないです。ね。それだけのものでは、信心は私は本当のものではない、信心の成長は見られない。ただ、広大なおかげを頂いたという、お話しを聞きよる内におかげを頂いた。ね。そういうおかげを頂かせてもらうことも、有り難いのだけれどもです、話を聞いて自分の心の調子を整える。調髪していく。ね。場合にはその、あの手この手がもちろんありましょうからそこんところを、おーお互い工夫させて頂いて。
これは私共の場合なんですけれども、おー自分の心の上にもとをとるというか、自分の心の上に、整えなければ前には進めないです。例えば、何かをしておる時でもです、ね、こげな状態でどげな仕事したっちゃもうだめだと。まず、自分の心を整えなければです、ろくなこつはなか。特に、んなら、自動車に乗る人達の場合なんかはそうだとこう思うですね。ね。
夕べ、えー田主丸から皆さん共励会でしたから、帰ってみえられましてから、えー、あ、そうそう、夕べはあの生麦のお供えを頂いていたんです。それが面白いんですもんね。前の日に、あの、熊本から参って来ております、「椛目にお参りをさせて頂きますから、どうぞ、何かお供えを持って来きてもらう、何をお供えさせて頂いたらよいじゃろうか」と言うてから、帰りにお伺いしたと。そしたらですね、「椛目はうにが好きじゃから」と、彼女仰っておる。だから、もう、うにを探してきて生のうにを買うてきとるわけです。折り詰めにいっぱい。大分の金額だろうと思うですね、生うに、あのお寿司に使う、あのうになんです。
もちろん私はその日はおりませんでしたから、久保山先生が御取次をなさっておられた、「はあもう、家の先生は生うにが大好物、大変喜んで、もう本当にお供えさせて頂いて有り難い。ね、まあ、そんなの、昨日、あの、家内がそれを忘れておりますたいね、冷蔵庫の中に入れてから、そして昨日家内が出しましたもんですから、ちょうど、昨日おー文男さんが繁雄さんやら、むつやの方達が来ておりましたから、一遍、生うにを食べさしたいと私、そして、昨日夕べ、それ、レモンの汁を絞り込んで頂いたらおいしいという事を昨日、繁雄さんが来てからいうからそうしたもの、実においしかったんです。それを食べさしたいばっかりで私がビールを一本出させ丹ですよね。そして、見たところが食べてしもうとったから、なかんったんですけれども、ところがですね、そのいっぱいのビールで文男さんが酔うてしもうたんです。ね。それで私は、これはそのお前のあの、菊栄会のあれでもう大変つかれておるものでしたからですね、これはもう、おー酔うてから帰る時の運転やら、居眠りでもしたら大変だと思ったから、それの、覚めるまでですね、あの、茶づけを頂くといいですもんね。飲んだ後に。ですからたったいっぱいで、飲みきらんとじゃん大体が。それから、私達わざわざ茶づけをさせたり、なんかして帰る時一時半でした。まだ色々お話しがありよりましたですから。そしたらおかげでもうすっきりしてあの、おかげを頂いておる。だから自動車を乗る人たちはですたい、ね、やはり、自分のその過ち運転をしないようにです、自分が例えばあー、その酔うておったり腹がたったりイライラしておる時にはまあ、自動車には乗られないと云うような事を申しますが、その位の気持ちが必要だということです。
沢山例えば、椛目というなら椛目のバスに皆さんが乗っておるようなものですから、その運転を私が、司っておるわけなんですから、ね、私が酔っ払っておったら、いわゆる心がですよ、ね、私の心が、あー、いらいらしておったりする時に、例えば運転に間違いがあっちゃならんと思うからこういう状態では前には進められないという事。ね。そこんところの心を整える為にです、ね、場合によっちゃ時間をおいてもです、自分の心をまず整えていかなければ、前には進まれんと言うくらいな信心が、私は大事だとこう思うです。 ね、油をつけたり、(しっこ?)をつけたり、それでも、いかんならいわば、アイロンでもかけさせてもらうとい様にして髪を整えていくような私は気持ちでです、自分の心を整えていかなければいけん。ただ今申しますような、ただ話を聞いておる中に、ね、喜びの坩堝の中にあってただ、何にも分からないで、ただおかげを受けて帰るというならば、、しかも、奇跡的なおかげがあらわれるのだけれどもです、そういう事だけが信心のおかげであると思うてはならない。
自分の心を整えられて、いわゆる「おかげはあるも無きも和賀心」と仰る、自分の和らぎ喜ぶ心というものをです、いつも、平生な心、の所に持ってきて、ね、先に進んで行く、という今日一日をおかげ頂いていくというおかげになってこなければいけないと私は思いますね。ね、こういう汚い心、こういうイライラした心、ね、この位な事で腹がたつはずはないのに腹が立つ。もうすでに、これは整えておらねばならぬ時だと、自分で思わせて頂いてね、(?)な時は前に進まず、足踏み状態でもよいから、ね、しばらくしておる仕事は一時やめてからでも良いからご神前にでも座らせてもらう、ね、修行の一つでもさせて頂くとうい気持ちになって、整えなければ前には進まれんというような信心が信心をいよいよ高め、進めして行くものだという事を思うですね。今日、調髪という事を頂くんですよ。ね、髪を整える。いわゆる、信心を整える。それは自分の心を整えるという事なんですよ。
どうぞおかげを頂いて・・・